曇った銀色のケトルがカセットコンロの上で喧しく騒ぎ出し、ジュードは視線を落としていた本を閉じた。
背もたれの無い、スチールの簡素な椅子は立ち上がっただけでもキシキシと音を立てる。
化学準備室の、年季が入っているが清潔に磨かれた流し台の一角は、ジュードのテリトリーだった。
三角フラスコの角を研いたみたいな形のコーヒーサーバーは、彼が入学するよりもずっと前からあるらしいが、ジュードが手に取るまで埃をかぶって部屋の隅に放置されていた。
顔が映りこむほどぴかぴかに磨かれ、ようやく正しい使われ方をしたポットは、けれどジュードがいない時は再び部屋のインテリアになる。
そんなに安いものでもないはずなのに勿体無いと幾度も言うのだが、持ち主はそれでいいのだとお決まりの返答を繰り返した。

まず最初に、沸騰したお湯をガラスのポットと色違いのマグ2つに注ぎ入れた。
容器が温まるのを待つ間、ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、メジャースプーンできっちり40グラム計って入れる。
こんもりと山の形を成す茶色の粉を左右にふるって均等にする事を忘れてはいけない。

「ジュードくーん、コーヒーまだー?」

抑揚のない、伸びきった声が開けっ放しのドアの向こうから聞こえる。

「もう少しー」

返事をしながらポットとマグに入っていたお湯をもう一度ケトルに戻し、火にかけた。
中身がなくなっても湯気が立ち上る、すっかり温まったポットにドリッパーを乗せてケトルが鳴きだすのを待つ。
体に染み付いた習慣だから、無駄な動きは一切無い。
だというのに、そんな事もお構いなしに無遠慮な声がジュードを急かす。

「早くしないとB組のイバル君の答案が爆発しますよー」

「無理。…ちゃんと採点しないとコーヒーあげないからね」

一工程でも省くつもりは無い、何時もとまったく同じようにしているのだから早くなんてできるわけが無いなんて分かっているくせに。

「あんまりお預け食らうとセンセー干からびちゃうんですけどー」

机の脚でも蹴っているのだろう、遠慮の無い音が聞こえてきた。
小さな子供でもあるまいし、いい年の大人が何をやっているのか。

「ほらァ、薬缶鳴ってるじゃん。早く早く!」

一度沸かした湯は、すぐに気泡を抱いて甲高い音で鳴く。

1,2,3,4,5,6…
火を止めてジュードが小さく呟きだすと、ドア向こうの部屋は急に静かになる。

沸かしたての湯で淹れるコーヒーは、きりりとして苦い。
一度沸騰させた湯を、少し放置して温度が下がった頃合を見て、ようやく抽出にとりかかるのだ。
たかがコーヒー、されどコーヒー。
大雑把に淹れようが、不味いというほど味が変わるわけではないにしろ、きちんと手順通りに入れるのがジュードのポリシーだった。
細口のケトルをそっと近づけ、ドリッパーの粉全体を濡らす程度に湯を注ぐ。
じぃ、と覗き込めば眼鏡が曇って白くなった。
とたんに濃くなる芳香に、思わず口元がゆるむ。
湿って色濃く変わるのを確認してから、またカウント。

1,2,3,4,5……,20

そうやって蒸らしている間に、部屋中がコーヒーの香りで満たされる。
粉が膨張し、ふつふつと泡が立つ。
それが消えない内に、淵を避けてのの字を描くと、ポットの中へ少しずつ液体が溜まっていく。
まぁるく膨らんだ粉がハンバーグに見えて、なんとなく夕食にはハンバーグが食べたいなぁ、なんてのほほんと考えている。
2度、3度、4度目と同じように注ぎ終えて、ケトルの中が空になった。
あとは抽出が終わるまで待つだけ、とケトルを流し台に置こうとした時だった

「わっ!!!」
「ひゃぁ!」

耳元で突然弾けた大声に驚いて、ジュードの手の中からケトルが転がり落ちた。
かん、と硬質な音を立てて汚れた床を滑っていくそれを気にする暇すら与えられない。
音もなく、いつのまにか背後に忍び寄っていた大きな影は小柄なジュードをすっぽりと覆ってしまう。

「やーい、驚いてやんの」

後ろから抱き込まれるように、両手でガッチリとホールドされ、身じろぎすらできない。
不意打ちとはいえ、幼いころから護身術として合気道を学び、今でも修練を欠かさないジュードを完封できる程の強い力だ。
抵抗しようと身を硬くしたのは反射的なもので、けれど良く知る声が耳朶を擽れば自然と力が抜ける。
薄汚れた白衣からは、嗅ぎなれた香水の匂いとほんの少しだけ煙草の匂いがした。

「もう、子供みたいな悪戯やめてよ…あー、びっくりした」

「俺を散々待たせた罰ですぅー」

「その喋り方気持ち悪い。あと、いい加減離れて」

密着しすぎているせいで、腕に力が入らない。
それをいいことに、そろり、そろり、と骨ばった手がジュードの体を這うように撫ぜていく。

「アルヴィン!」

怒気を含んだ声で呼べば、仕方なく…といった風情で開放される。
過ぎた悪戯を子供に窘められた情けない大人は、唇を尖らせてぶつくさと文句を吐いている。

「ジュード君はけちだなぁ。いいじゃんか別に減るもんじゃなし」

「減るよ、僕の精神が。というか既に大分磨り減ってる」

「ゴメンネー」

わざとらしい作り声の謝罪は、まったくその意味を成していない。
仕方ないなぁ、なんて意味のため息は、そのまま伝わってしまったようでアルヴィンがけらけらと笑った。

「いい匂いするからさ、待てなかったんだわ」

転がったままのケトルを拾い上げ、流しへ置いたアルヴィンがポットを指差した。
ぽた、ぽた、とゆっくり落ちていく雫。
馬鹿なやり取りをやっている間に、すっかり抽出は終わってしまっている。
アルヴィンはいい具合に出来上がっていたコーヒーを我が物顔で二つのマグに注ぎ、ピンクのそれをジュードに手渡した。

「ありがとう」

「どーいたしまして。こちらこそいつも淹れてくれてありがとう」

なみなみと中身の注がれたブルーのマグに口をつけ、アルヴィンは嫌味の無い笑顔で笑う。
くたびれた白衣を着て、髪は整えられることもなくボサボサで、レンズは汚れたままの眼鏡をしていようと、元が良いからそうやって笑えばドキリとするほど男前だ。
平均よりも低い身長や、中性的な顔立ちをコンプレックスとしているジュードには、それがうらやましくてたまらない。
(まじめにしてるか、黙って立ってればすごいカッコイイのになぁ……普通にしてても、僕じゃ何年たっても太刀打ちできないくらいだけどさ)
自分も暖かいカップに唇を寄せて、ジュードはアルヴィンの顔を見上げた。
自分と同じように眼鏡が白く曇って、じわじわと消えていくのをぼんやりと眺める。

「ん、いつも通り美味い。こんだけ美味いもん毎日飲んでると、もう缶コーヒーとか絶対無理だわ」

「そんな、大げさだよ…」

手放しに褒められるのが照れくさいのか、ジュードは頬を染めて視線をさまよわせる。

「ほんとだって、謙遜すんなよ。優等生がそうやって言うと逆に嫌味っぽいぞ?」

からかっているようで、ますます褒めてくるものだから、ジュードは何も言い返せずに縮こまった。
高校一年生男子に形容する表現としては、その尊厳を傷つけるものかもしれないが、その姿は小動物を思い出させる可愛らしさだ。
本人は恐らく知らないだろうが、噂では大学部の女子生徒に人気があるらしい。
高等部の教師であるアルヴィンですら聞いたことのあるものだから、同学年の間では随分広まっていることだろう。

「容姿端麗、成績優秀、運動神経もバツグン、料理もできるし、なにより俺好みのコーヒー淹れるのが上手いだなんて、ほんっと優等生中の優等生だな。ジュード君」

褒めれば褒めるほど、ジュードの顔が朱に染まる。
意地の悪い大人が、そうやって深みに誘っていることにはきっと気づかないのだろう。
音もなく添う陰に、ジュードはいつだって無防備だ。


「美味しいコーヒーのご褒美やるよ、優等生」


さっきだって、今だって、武道を習っているくせに、悪意のある人間を懐に入れることを許すから。
こんな汚い下心に気づかないでぼんやりとしてるから

大事なものを、奪われてしまうんだろうな。


「あ」

それは単なる感嘆符の代わりだったのか、あるいは名前を呼ぼうとしたのか、今となっては分からない。
唇でふさがれた言葉は、苦いはずなのに甘く零れた。


「さっき言ったろ、我慢できないって」


磨いた瑪瑙のような瞳が、溶けそうに潤んだ。



「二人だけの特別授業、な」


無遠慮に這い回る手を拒むことも忘れて、ジュードはそっと目を閉じた。










備室にて