| 春も終わる時期の、けれどまだ暖かな日差しが眠気を誘う頃合に過ごす穴場を、きっとジュードだけが知っている。 部室棟と本館を繋ぐ渡り廊下、のさらに下。 棟の端にある地下用具倉庫へ続く、長い階段の存在を知る生徒は他にいないだろう。 いたとして、そんな場所に好き好んで行くような生徒はいなかった。 少なくともジュードが中等部に上がってからは、ここで誰か他の人間に遭遇したことは一度もない。 だからこそ、ここはジュードにとっての小さな隠れ家たりえた。 長い長い階段の、日によって違う、どれか1つが椅子の代わり。 いつも一枚多く持ち歩いている、青いチェックのハンカチを敷いて座ってしまえばそれで十分。 頬を緩ませる日差しに透かされて、ひらひらと埃が舞うのをぼんやりと見つめた。 「あったかいなぁ」 溶け込めずに消えた独り言、ひとつ。 それに寂しさを覚えるには、もう遅すぎた。 格子の嵌められた窓は、半地下の空間にも十分光を取り入れられるほど大きく、日が昇っている内であれば他の光を必要としなかった。 昼休みはまだ始まったばかりで、にぎやかな声が隔てた空間の向こうに溢れ返っている。 そんな音を、なんとなく耳で捉えながらジュードは読みかけの本を開いた。 拳ダコのできた大きな手はかさかさに乾いていて、ページをめくるたびに紙と擦れあってチリチリと熱を発する。 思い出したように、持ってきたビニール袋に右手を伸ばして紙パックの牛乳にストローを刺した。 ふつふつと汗をかいた紙パックの表面を濡らすように触れて、少しずつ中身を嚥下する。 空いた左手でページを捲り、黙々と字を追い続ける。 例えばこれが他の目があるところだったり、家だったりしたら、絶対にしないだろう行動だ。 お行儀が悪い!なんて、むしろ嗜めるのはジュードの役目だった。 こんなつまらないことひとつ、こうやって誰の目に触れないところでしかできない。 こんなちっぽけな抵抗しか、できない。 それを今まで不満と思ったこともなかったし、進んで何か変えようだなんて、ジュードはこれっぽっちも思わなかった。 たった今、この瞬間までは。 音もなく、大きな影が降りてきた。 本にかかる影がなければ、ジュードは気づかずにそのまま読書に勤しんでいたかもしれない。 字が読みづらい、と顔を上げてようやくその存在に気づいたくらいなのだから。 「アンタ、こんな所でなにやってんだ?」 平坦な調子なのに、まるで熱にうかされたような、幻聴にも感ぜられる声だった。 低く、甘い、こえ。 それが自分に向けられた言葉だと理解するのに、数拍を要した。 ジュードはその間を何十分にも感じたし、あるいは本当に一瞬にすら感じた。 生徒、でもない、教師でも…恐らくない。 知らぬ間に目の前に立っていた男は、見たところ20を幾つか過ぎたくらいの年の頃だ。 惚けたように見つめるジュードに構うことなく、男は言葉を続けた。 「…いかにも優等生、ってツラしてんのになぁ…まさかこんな場所でボッチ飯とは、寂しいねぇ」 事実を指摘され、恥ずかしいやら、情けないやらでジュードの頬がカッと赤く染まった。 男は乱雑にガリガリと頭を掻いて、小さく息を吐き出す。 「悪い、貶した訳じゃない」 ぬばたまの美しい髪がさらりと揺れた。 ジュードの髪も同じ黒だったが、ふたつを比べればまるで違う色のように感じる。 濡れたような艶を放つ長い髪は、男の性別をあやふやにさせる。 声も、体格も、間違えるのがおかしいくらい、立派な成人男性のものであるのに。 あまりにも、それが 「綺麗……」 反射的に口をついて出た言葉に、美しい男は笑った。 表裏のない清々しさ、しかし一方で妖艶でもある、そんな笑顔で。 「小さい子供みたいだな…思ったことそのまま口に出てるぞ。まぁ、世辞じゃなく褒められるっていうのは、悪い気しねぇよ」 「えと、…あの…」 見た目に反して闊達な男に、ジュードは遠慮がちな視線を向けた。 何かスポーツか武道でもしているのだろうか。 堂々と立つ男の背は真直ぐと伸びており、凛としている。 だぼついたツナギで曖昧になっているが、無防備にはだけられた胸元からはしなやかな筋肉が覗いていたし、袖をまくって露わになった腕はジュードのそれよりずっと逞しかった。 ただ立っているだけで、随分と目立つ男だ。 声や髪や体だけではなく、男は顔も掛け値なしに美しい。 まるで現実離れした美貌を前にすると、言葉が出てこない。 例え、その美しい男が薄汚れたツナギに身を包み、バケツとモップを携えていても、だ。 「なぁ、名前は?」 男の問いに、ジュードは咽をふるり、と振るわせた。 「ジュ、ジュード…ジュード・マティスです」 「ジュード、か…いい名前だな」 からん、とモップが床に落ちた。 「俺はユーリ・ローウェル。見ての通り、この学園の用務員だ。よろしくな」 モップを放った片手が、ジュードに向かって差し出された。 その手をとって、握る。 ただの握手が儀式めいた何かのように思えて、そんな風に感じる自身が急に可笑しくなった。 ジュードが頬を緩ませると、ユーリも笑う。 シニカルに、けれど良く笑う男だ。 「なんだ、笑うと可愛いじゃん」 その声は、まるで銃弾のようにジュードの胸を貫いた。 |
階段にて