ことばにできない
カップの縁にキスをした唇が、今度は自分に向けて言葉を紡ぐのを待っている。 待って、待って、待ちぼうけて、もうどれくらいの時間が過ぎただろう。 トリグラフでも人気のカフェのテラス席は、厨房から漂ってくるパンケーキの甘い匂いに満たされて胸焼けがしそうだ。 シロップと、クリームと、フレッシュフルーツの、どれも甘いけれど種類の違う香り。 「アルヴィン」 紅茶で湿った唇が自分の名前を呼んだので、俺はほんの少しばかりの期待を抱いて視線をジュードへ向けた。 こうして会うのは随分と久しぶりで、今までどうやってジュードに接していたんだっけ、なんてことを改めて考えてしまう。 二節会わない間に髪が伸びたようで、まだ幼さを残す輪郭がいっそう際立って見える。 研究漬けであまり日に当たらないと苦笑いをしたジュードの肌は記憶にあるより白く、体はいっそう細くなった。 二次成長期を迎える前の少女のような、ともすれば崩れてしまいそうな儚さに、どう接したらいいのか分からない。 会わない期間が長ければ長いほど、ジュードがきらきらと眩しく見えるのだ。 旅をしている間は、朝から晩までずっと一緒に行動していてもそんな風に思ったことが無かったのに。 まともに目もあわせられないくらい、緊張する。 「なに」 口をついて出たのは、自分の意思に反してあまりにも素っ気無い言葉だった。 声に出してから、自分自身でも驚いたくらいだ。 違う!こんな風に返事をするつもりじゃなかったのに。心の中で叫んだって、もちろんそんな言葉はジュードに届かない。 不自然な間をどうにか埋めたくて、誤魔化すように冷え切ったコーヒーに口をつけた。 味なんて、ほとんど分からない。少なくとも美味いとは感じなかった。 目が泳いだりしないように、緊張で指先が震えないように。意識すればするほど、裏目に出ている気がした。 それを気にしているのか、いないのか、ジュードは小さく首を傾けてフォークに突き刺した苺を口に運ぶ。 薄い桜色の唇と、真っ赤な苺のコントラストに眩暈がしそうだ。 まるで誘いかけるように唇に押し当て、軽く歯で咥え、ゆっくりと咀嚼する。 目が離せない。光に集まる虫みたいに視線が吸い寄せられて、自然とジュードと目が合った。 化学反応を起こしたみたいにジュードの頬が薄紅に染まったのを見て、頭の中がショートしたみたいに熱くなる。 絡んだ視線の先の、夕焼けを溶かして砂糖と一緒に煮詰めたような瞳に映った俺は、馬鹿みたいに呆けた顔をしている。 ぱちぱちと瞬きをするたびに、長いまつげの影が揺れた。 ただそれだけの動作がどうしようもなく気になって、いっそ目を潰してしまいたくなる。 花が咲くように、光が降り注ぐように、そっと微笑むだけでジュードは何も言わない。 その代わりに、拳ダコのつぶれた、いびつだけれど大きな手がゆるりと伸びてきてそっと俺の頭を撫でた。 とても気持ちがいいのに、肩がむずがゆくて身の置き場が無くなる。 沈黙が続けば続くほど、いっそう意識してしまう。 何か言ってくれ、そう伝えることも出来ず、俺は視線を下げた。 「……ジュード、」 素直にただ一言、好きだと。 そんな短い言葉が音になったなら、それで十分なのに。 言葉にできない。 *** いたたまれなくなって逃げ込んだ先は、けれどそうなった原因のジュードも居るヘリオボーグ基地内の研究施設だった。 さもありなん、俺にはこんな情けない悩みを相談できる相手なんて片手で足りるほどしかいないのだ。 大して遠くない部屋に先ほど気まずい思いをして分かれたジュードがいるのかと思うとハラハラしたが、背に腹は変えられない。 身近な年上の、頼りになる従兄弟殿のいうことには、 「いい年して、まるで子供の恋愛じゃないか」 目に涙まで浮かべて愉快愉快と笑うバランは心底憎らしかったが、それに対して反論する言葉が見当たらない。 かといって笑い話のネタにされるのは、決して気分の良いものじゃない。 体裁だけでも繕おうと喉を震わせて、でも結局何も出てこなかった。 「気のない女を口説いてベッドに誘うのは得意な癖に」 眼鏡越しにニヤニヤと楽しげな色を浮かべた目が笑う。 「まるで見てきたみたいに言うな」 血の繋がった従兄弟とはいえ、幼い頃にエレンピオスを離れて以降再会したのはつい最近の事だ。 何も知らず、ただ純粋だった子供時代からは想像もつかないような腐った大人になって戻ってきたのに、バランの態度は変わらない。 全てを見透かしたような目で、声で。昔から変わらず、俺に容赦が無い。 「おや、違うのかい?」 違うはずがない。聞いているのに、まるでそう断言されているようだった。 例えばそれが、情報や資金を得るために過去にしてきた手段の一つとしてならば、違わない。 散々使い尽くしてきた手段で、得意か不得意かでいうなら間違いなく前者だ。 口に出したらいい訳じみてるなぁ、なんて言われるに決まっているから黙っている。 「……違わない、が。今は別に関係ないだろ」 室内に設置された電灯がチカチカと光って目に痛い。 基地内にあるバランの研究室では試作段階の源霊匣が使われていて、あくまで実用に至る前の段階のそれはとても淡く、不安定な光だった。 それがまるで自分の心中を表しているようで、落ち着かない。 気になるのは俺ばかりで、部屋の主は全くそんな様子は無かった。 会話を続けながらも、机の上の書類を淡々と片付けている。 あくまでも、俺の相談事は片手間、というわけだ。 そりゃぁ、仕事中に連絡も無くやってきたのは悪かったと思ってるさ。 それにしたって、傷心の従兄弟にもう少し優しくしてくれたっていいだろう? 「あるさ。どうせ散々好きだの愛してるだの言って嘘ついて口説いてきたくせに、やっと本心からそう言える相手見つけておいてどうして同じ言葉が素直に言えない。思春期のガキじゃあるまいし」 普段の飄々とした雰囲気はそのままに、言い放つ言葉は随分と手厳しい。 「楽になりたいんなら腹を決めろよ、アルフレド。中身はともかくとして、君のほうが大人なんだから」 一言余計に多いバランをねめつけて、重い息を吐く。 「それが簡単に出来るんなら、こんな所に逃げ込んでない」 「なんだ、逃げてるっていう自覚はあるのか。多少は成長してるみたいで嬉しいよ」 言葉の節々にある棘がちくちく刺さって痛い。 「……なぁ、今日はやけに言う事が厳しくないか?」 人好きのする笑みが見ているままの表情に見えなくて、恐る恐る尋ねた。 バランはペンを握ったまま、こめかみのあたりをがりがりと引っかいた。 何か考え事をしているときに、上手く言葉がまとまらないときの癖だ。 「僕もね、いい加減不毛な愚痴を聞かされるのに飽きちゃって」 言いながら、淹れたまま放っておかれたコーヒーを口にする。 「ぐだぐだぐだぐだ終わりの見えない惚気話を延々と聞かされる身にもなってくれ。こっちは君達と違って独り身なんだから」 「惚気って……別に俺達は付き合ってるわけじゃ」 そうなれたら良い、なんて淡い期待だ。 「でも君はジュード君が好きで、ジュード君も同じように思ってる」 音符のような模様の入った万年筆のペン先をぴしりと目の前につきつけられて、思わず腰が引ける。 今まで自分でははっきりと言葉にしなかった感情を、あけすけに言葉にされて息が喉に詰まった。 「今更……言えるかよ」 寝食を忘れるくらい源霊匣の研究に没頭しているジュードが、俺に会うためだけに時間を作ってくれているのを知っている。 今日だって学会のためにこちらへ着いたばかりで疲れていただろうに、一番に会いに来てくれた。 他の仲間にだってジュードは陽だまりのように優しくてあたたかいけれど、アルヴィン、と名前を呼ぶ声は特別優しくて、甘い。 それに気づけたのは自分も同じようにジュードに接していたからで、意識しだす頃にはお互いの間の空気は旅をしていた時とはすっかり様変わりしてしまっていた。 次に会うまでが遠くて、待ち遠しい。 別れ際にそんな風にぽつりと零したジュードの言葉に、胸が苦しくなった。 同じ気持ちなのだと伝えようにも、うまく言葉に出来ない。 だから、代わりに手を繋いだ。 離れがたくて手を繋いだその時の熱は今も残滓が残っているように感じるのに、この手の中には、何も無い。 遠く離れた二人を結んでいるのは、自分勝手な期待だけだ。 「相手に”好きだ”って言って欲しいのなら、自分から言わなくちゃ」 熱の篭った視線の先を、緊張して震える唇の紡ごうとした言葉の続きを、いつも待つばかりでちっとも先に進めない。 叶うのであれば、そのたった一言が欲しい。 「お互い似たもの同士なんだから、いい加減諦めなよ」 バランは諭すように言って、俺の肩を叩いた。 いつの間にか、片手間だったはずの作業が入れ替わっている。 「いっておいで、アルフレド。きっと彼は待ってる」 君と同じようにね。 訳知り顔で言うバランに背中を押されて、俺はようやく一歩先へ歩みだした。 *** エレンピオスでのジュードの活動拠点は、バランと同じくヘリオボーグ基地内にある。 もう日も落ちたが、今日はトリグラフにとった宿には戻らないつもりらしい。 昼間のうちにした会話を、こうやって役立てることになるとは露とも思っていなかったが。 俺は送り出された部屋から僅か5分もかからない研究室の前に立って、その倍以上の時間を部屋の前で過ごしていた。 ノックをしようと握った手は、宙で浮いたまま。 けれどこのまま帰る気もしない。 おそるおそる拳をドアに軽くつけると、蚊の鳴くような小さなノック音がした。 金属製のドアはぴくりともせず、淡い光を灯した廊下はただただ静かだ。 もう一度、と拳を浮かせたその瞬間に。 コンコン、自分のノックよりも大きな音で、けれど控えめな音がドアの反対側から聞こえた。 びくりと体をこわばらせると、追い討ちのようにもう一度同じ音が鳴る。 「……アルヴィン?」 ドア越しのくぐもった声が、俺を呼ぶ。 咄嗟に返事が出来ず、俺は浮かせたままの拳を解いてドアノブに手を掛けた。 鍵のかかっていないドアは勢いよく開いて、つんのめったジュードが転びそうになる。 「わっ……」 反射的に引き寄せると、軽すぎる体はすっぽりと俺の腕の中に納まった。 洗いざらしの白衣から、かすかに甘い匂いがする。 触れ合った部分からじわりじわりと染みこんでくる体温は、あっという間に全身に広がっていく。 熱に浮かされて頭がどうにかなってしまう前に、伝えないと。 バランの言った通り、まるで子供の恋だった。 自分の思う相手が、同じ気持ちを返してくれたらどんなだろう。 そんな風に夢想するばかりで、結局俺は自分から何もしなかった。 アルヴィン、と甘やかな声音で名前を呼ばれて、その次に来る言葉に期待ばかりしていた。 『相手に”好きだ”って言って欲しいのなら、自分から言わなくちゃ』 バランの言葉が頭の中でリフレインする。 言ったらなにか、変わるだろうか。 ごくりと唾を飲み込んで、長いこと喉に突っかかっていた言葉を吐き出す。 「ジュード、俺、お前が」 心臓の音が煩くて、自分が何を言っているのかも分からないくらいだ。 きっと目を合わせたら、何もいえなくなる。 細い体を抱きしめる力を、ほんの少しばかり強くして目を瞑った。 すきだ。 ずっとそう言いたかった。ずっと、そう言って欲しかった。 自分だけの”特別”が欲しくて、それを与えてくれる”誰か”に縋りたがった。 好きだって、言われたい、言わせたい。 ずっと思い続けてた、沢山の思いを込めて。 全力で走った後みたいに鼓動が早くて、喉がカラカラに乾く。 もしこの場で拒絶されたら、はぐらかされたら、俺はジュードの言葉ひとつで死んでしまうかもしれない。 ほんの数秒の間さえ耐え切れないほどに長く感じて、俺は恐る恐る目を開いた。 おんなじ言葉を、貰えたなら。 それはどんなに幸せなことだろう。 ずっとそんな風に考えていた、夢のまた夢だと思いながら。 でもいつだって、ジュードは俺の予想の遥か上を行くみたいだ。 俺の好きな、花が綻ぶような笑顔。 潤んだ瞳が、まっすぐに俺を見てる。 返事を紡ぐのを期待していた唇はぎゅうと引き結ばれたままで、けれどほんの瞬きの間に。 ふれる。 「僕も、すき」 言葉と一緒に鳥の羽みたいに軽い口付けが降ってきて、俺はたまらずジュードを抱き上げた。 この幸せを、なんて言葉にしたらいいだろう! とても全部、ことばにできない。 だからせめて、もう一度キスでもしようか? 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