偶然職員室の前で遭遇した良く知る後姿は、けれど振り返ってみればどこか違和感を覚えた。
下手をすれば少女めいて見えるほど甘い作りの顔は今日も無防備な笑顔を向けてくるし、片手で担げてしまいそうな華奢な体躯も昨日と変わりない。

「おはようございます、スヴェント先生」

普段はアルヴィン、と呼び捨てにするジュードがこうして呼んでくるのは学校内でだけだ。
必要以上に他人の目を気にする優等生は、小さな頃から変なところにばかり気を回してくる。
それが正しいことなのだと分かっていても、どこかで一抹の寂しさを覚えた。
返事が無いのに焦れたのか、覗き込むように首を傾けたジュードの髪がさらりと横に流れた。
眼鏡の縁にかかる絹糸を邪魔そうに払う仕草が、今日は、ない。

ああ、なんでこんな目立つ物を一瞬で理解できなかったのか。

「………おはよう、マティス君。ところでソレ、どしたの?」

たっぷり間をあけてから自分で考えてみた結果、それはあまりにも自然すぎたからだと気づく。
気づいてしまってからは心中穏やかでいられなかったものの、あからさまに取り乱すのは"らしく"ない。
だから低い声で感情を押し殺して、極力平静を装って言った。

「え、ソレって…」

「だから、その、髪につけてるヘアピン!!」

昨日最後にジュードの姿を見たときには、確かにつけていなかった。
校則違反にもならないような、色が赤いだけのシンプルなヘアピンだ。
それでもジュードが自らそれをつけるようには思えない。
左頬にかかる髪が少し伸びてきたのに気づいたのは数日前のことだったが、当の本人はあまり気にしていなかったはずだ。

指摘したソレをジュードの指が確認するようにゆっくりと辿る。
舐めたらきっと甘いのだろう、飴玉みたいにまんまるな目を見開いて。

「あ、っ…これ、は…!」

瞬間湯沸かし器、なんて情緒のかけらも無い、けれどそれがぴったり似合うくらいの表現で。
耳まで真っ赤にしたジュードが、かわいそうなくらい狼狽える。
その表情は恋する乙女さながら…むしろそのもので、逆にこちらが驚いた程だ。
その様子に単純な驚きと、苛立ちと、嫉妬をまぜこぜにした感情が湧き上がる。

俺の気なんて、知りもしないで。

「優等生、ちょっとこっち」

「わっ、アルヴィ…先生!」

強引に手を引けば、碌な抵抗もしない?躯は引きずられるようについてきた。
登校時間にはまだ早い、見咎めるものは誰もいなかった。
真直ぐに化学準備室へ歩みを進めるのを止めないジュードも、何を考えているのやら。
チラリと視線を寄越せば、まだ赤面したまま頬を隠すように覆っている。
ああ畜生、かわいいな。




++++++




合気道部の無い高等部とは違い、大学部にはそれ専用の建物丸々1棟分用意されている。
幼いころから武術を教えてくれている師範の好意もあって、ジュードは時折大学部の練習に混ぜてもらっていた。
大学の広い敷地内を全部見て回ったわけではないが、道場の周辺とそこへたどり着く道だけはしっかりと頭の中に入っている。
しかし、大学の中に絶賛成長期の高校1年生が紛れ込めばそれなりに目立つ。
制服では入りづらいからと、一旦帰って着替えたというのにあまり意味が無かった。
誰かとすれ違うたび、目が合うたびに珍しげに眺められるか、お喋りの種となっているのはジュードも自覚していた。
別にやましいことは何も無い。それでも無遠慮にじろじろと見られるのは落ち着かなかったし、何より恥ずかしい。
ともすれば中学生と間違われるほど小柄な体と、中世的な顔立ちは本人からすればコンプレックス以外の何物でもないが、周囲はまた違った目で彼を見ている。
儚げな印象の美少年が、眼鏡のガラス一枚隔てた向こうで困惑の色を浮かべながら足早に過ぎていくのを、皆が皆一様にして見蕩れているのだ。
練習を終えて汗を吸った濡れ羽色の髪がさらさらと揺れる。
運動の後だからか、血色がよくなった顔は照れて朱をさしたようだ。
それが、身の置き場がなさそうに肩を丸め、眉を八の字にしているものだから。
目を引くのは当然のこと、と断言しても否定する者はいないだろう。
触れたら壊れてしまうような、繊細な少年の美しさを誰もが遠巻きに見ていることしかできなかった。

今、この瞬間までは、だが。

「そこの少年、ちょっといいだろうか」

逃げるように一心に進んでいたジュードの足を止めたのは、背に投げかけられた凛とした声だった。
大学部の敷地内で少年、と呼ばれてしまっては名指しで呼ばれたも同然。
驚いた猫のように大きく肩を震わせてゆっくりと振り返ったジュードの目に飛び込んできたのは、秋の稲穂を刈り取ったような美しい黄金色の長髪が印象的な若い女だった。
まるでモデルのような均整の取れた体は、ジュードよりも上背がある。
どこにでもあるような黒地に赤のラインが入ったジャージを着ていてさえ、第一印象は"完璧な美人"としか形容できない。


「あ、の…僕、ですか?」

惚けたように女を見つめ、ジュードは口をもごもごさせながら尋ねた。

「ああ、そうだ。突然声をかけてすまなかったな、驚いただろう」

「はい、あの…」

突然声をかけられたから、というよりは女が今まで見たこともないほど綺麗だったからだ。
と、口にできないジュードは俯いて頬を染めた。
汗でぬれた前髪が張り付いて気持ち悪い。
そういえば随分伸びていたな、と気づいたのは今日の稽古の途中だった。
目にかかる髪が邪魔で、今日は稽古に身が入らなかったことを思い出す。

「そう、これだこれ。もう一週間も気になっていてな」

下を向いたせいで目にかかったジュードの前髪を、女の白い指が摘みあげる。

「ひゃ、っ…!」

くすぐったさと、突然触れてきた手に驚いてジュードが顔を上げる。
それでも女はしげしげとジュードの髪を見つめたままで、指先で弄んでは何度も頷いていた。

「えと、あの…離してくださ、い…」

蚊の鳴くような声を聞いてようやく、女は身を引いた。

「いきなり触れて悪かった、気を悪くしたか?」

「い、いえ…そんな事は」

「なら良かった」

大輪の花が咲くような笑顔につられて、ジュードもまた笑顔を見せる。

「私はミラ。ミラ・マクスウェルだ」

「ジュード・マティスです」

握手を求められ応じると、先ほどは気づかなかったが華奢なミラの手に皮膚が硬化してできたたこに気づく。

「君は合気道部によく通っている高等部の子だろう?私は隣の剣道場で活動しているから、よく君を見かけるよ」

よくよく見ると、ミラの着ているジャージには刺繍で"剣道部"と書いてある。
剣道部の道場は真隣にたっているはずだが、ただの一度もこんな美女をみかけたことは無い。
稽古に集中していて他が見えないことはよくあるが、知らないうちにそんな風に見られていたと思うと勿体無い気もした。

「それで、今日も思ったのだが…運動をするには少々前髪が伸びて邪魔だろう?よかったらこれを使ってくれ」

ミラがジャージのポケットから何かを取り出し、ジュードの拳に握らせる。
細く小さな体とは対照的に、拳撃を繰り出すジュードの手は大きくごつごつとしていた。
ミラは興味深そうにその手を撫ぜ、満足したように手を離す。

「用件はそれだけだ。ジュードの型は舞うような美しさがあって見ていて楽しい。明日はもっと、楽しみだな」

「これ…あの、ミラ、さん…?」

ぎゅう、と握り締めた手が熱い。
今まで幼馴染のレイアくらいしか、そうやって近くで触れる女性がいなかったせいか距離感が掴めない。
体温と、あまい匂い。

「ミラ、でいいよジュード。それではまた」

気まぐれな猫のように、するりと体を滑らせてミラが走り去っていく。
その姿はあっという間に小さくなって、長い髪がゆらゆらと揺れるのを目で追いながら、ジュードは姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

ジュードの手の中には赤いヘアピンが四つ。
明日はもっと。
その言葉がリフレインして、頬が熱くなる。

おおよそ男子が身につける品ではないということにジュードが気づくのは、もう一日後のこと。
そのときはただただ、馬鹿みたいに脈打つ心臓の音を聞くことしか、できなかった。





++++++





教室と違って、準備室の中の備品はぞんざいに扱われている。
脚がガタガタと歪む椅子は、本来なら春には捨てられるはずだったが、今はほぼジュード専用として使われていた。
床と椅子がこすれる音は、落ち着かない。
しかし、それ以上に落ち着かないのが、普段はきちんと順序立てて物事を話すジュードが、めずらしく感覚でものを言っている。
とか思っていたら、やたらとキラキラしい回想が始まって思わず口を開けたまま停止してしまった。
好きなものに対しての興味の示し方が顕著なのは昔からだが、ジュードがここまで心奪われるものはそうそうない…はずだ。
そのことに嫉妬しないといえば嘘になるが、鮮烈すぎるその印象に圧倒されるのも仕方の無い。

「あぁ…"ミラ様だろ?ジュード君…二ヶ月も大学部通ってて一度も見かけたこと無かったって方がおかしいぞ」

同年代の女子にありがちな、羨望や憧憬、恋する乙女の特殊フィルターを抜きにしたって人の目を浚う存在。
分かりやすくいうなら”カリスマ”、まさにその言葉が具現化したような存在は現実に存在する。

「そんなに有名なの?…確かに、すっごく綺麗な人だったけど…」

「容姿もさることながら、キャラが強烈だからな…あの女」

「知り合い?」

分かりやすく声のトーンが跳ね上がる。
赤く高潮して、薄く綻んだ唇はふるふると震えていた。
まるで、まるでこれじゃ本当に、恋に浮かれる若者そのものだ。

恋くらい、なんだ。
15歳の健全な少年に、そういった類の話はつきもののはずで、それをからかうのが身近な大人である自分の役目だったはずなのに。
心のどこかで、真面目すぎるこの優等生は、そんな風に恋に落ちたりする訳が無いと思っていたのか。

ずるい大人は、面倒ごとを誤魔化すことにばかり長けてしまって、どうしようもない。

「…いや、大学部の助教授にいとこがいてな。それでちょっと知ってるだけ」

嘘は言っていない、だがそれが全部でもない。
まさか自分が何年も一方的に恋焦がれる対象に、別な相手を紹介してくれないかだなんて言われたら、どうにかなってしまいそうだったから。

「ふぅん…」

残念そうな声に上書きするように、重ねる。

「去年の冬くらいだったか…下校中に変質者に襲われかけてた小等部の女の子を助けたとかで"ミラ様"って呼ばれてファンクラブまであるくらいなんだぜ。近くを歩くと黄色い悲鳴が時々上がるから、すぐ分かる。」

その様が容易に想像できる、という時点でその存在はどこか世間とずれている。
どんな目で見たって、それはきっと変わらないだろう。
ただ、ジュードの目に、彼女はより輝いて見えているに違いない。
自分が見る、ジュードと同じように。

「それ、似合うな」

絶対自分では選ばないだろう、赤色を指した。
ジュードがはにかみながら、ありがとう、と小さく言う声を耳に閉じ込める。

せめて、一番最初にそれを見て、似合うといって褒めるだけの権利を奪ってやろうじゃないか。
どうせ俺は何もできない、できやしない。
教師と生徒なんて肩書きを取っ払ったって、きっと。

眩しすぎる朝の日差しを、俺はただ見ていることしかできない。
放課後なんて、来なけりゃいいのに。
朝をかき消すが部屋を裂いて、ゆるやかに、消えた。






閃光